2011/06/12

エアコン


正直たまらない。 
そろそろ我慢の限界だ。 

日本の夏、いやまだ夏にさえなっていないというのに、 
この不快さといったらない。 

特に今年はそれは格別だ。 
節電の影響でエアコンが自由に使えない。 
自宅ではクーラーをガンガンにきかせているものの、 
やはり公の場ともなるとそううまくはいかない。 

「クーラーが使えない」というと、 
馬鹿の一つ覚えのように、 
「昔はクーラーなんてなかったんだから」 
と返す人間が周りには山ほどいるが、 
どうもそういった人種を好きにはなれない。 

あれは要するに巧妙なトリックだ。 
いや、トリックというよりも幻想だ。 
言葉のあやに惑わされるほどバカバカしいこともない。 

「昔はクーラーなんてなかったんだから」と聞いて、 
多くの人はどのような光景を想像するのだろう。 

平安時代の涼しげな貴族の暮らしだろうか。 
江戸時代のにぎやかな城下町だろうか。 
古き良き昭和ののんびりとした縁側だろうか。 

いずれにしても、 
そこには「風」があり、「涼しさ」がある。 
しかし考えてもみてほしい。 
「クーラーなんてなかった昔」はそれだけではない。 

たとえば1950年代を想像してほしい。 
クーラーは1960年代に台頭した3Cの一角を担っていたわけだから、 
50年代の時点では当然、広く一般には普及していない。 
一方で50年代は戦後復興を考える上で最も重要な10年間である。 
薄汚いビルの一室で脂汗をかきながら作業をしている姿が、 
いとも簡単に想像できる。 
もちろんクーラーは設置されていないわけで、 
この汗臭い昭和の1コマも当然、 
「クーラーなんてなかった昔」の断片に相当する。 

結局何が言いたいかというと、 
「昔はクーラーなんてなかった」と聞くと、 
平安時代や江戸時代を想像して、 
なんだか我慢できるような気になるが、 
実際の環境はむしろ1950年代のそれに近く、 
やっぱりクーラーがあるに越したことはないねという結論に至る。 

日中は明るいんだから照明なんて消して、 
その分をクーラーに回してほしい。 

そして今日もまた、 
自宅に帰るなりエアコンのスイッチを入れる。