2011/10/22

創造


ものをつくるのって難しい。 
「作る」のではなく「創る」ほう。 
新しく生み出すこと、創造すること、要するにクリエイション。 
ここからは自分の考えを書くので、 
そういったものに耳を貸したくないという人はページを閉じてほしい。 

さて、そのクリエイション。 
自分の中で何かをクリエイトするということは、 
相当難しい行為の中に分類されている。 
なぜかというと、 
クリエイションには豊かな経験や積み重ねが必要だから。 
逆にいえば、 
こういった経験や積み重ねのない人間は、 
物をクリエイトすることができないと考えている。 
仮にできたとしても、 
それはせいぜい月並みで陳腐な創造物でしかない。 
ただのお遊びになってしまう。 

正直なところ、ここまで読んでいる人の多くは、 
何を言ってるんだこいつは、と思っているだろう。 
たしかに自分でもそう感じるので、 
具体的な例を挙げて考えてみよう。 

たとえばニュートン。 
彼はりんごが落ちるのを見て、万有引力の存在を発見した。 
ここでポイントとなるのは、 
りんごが落ちるという重要なイベントが、 
彼にとって「いつ」起きたのか、ということ。 
おそらく彼は、 
りんごが落ちるずっと前から万有引力に関わる研究をしていて、 
自分なりのビジョンを持っていたはず。 
それと同時に、 
万有引力に関する科学的な知識を豊富に蓄えていたはず。 
「もしかしたら地球には物を引っ張る力があるのでは?」 
ぼんやりとでも、そんなことを考えていたときにりんごが落ちた。 
だから彼は「万有引力の存在」を発見することができた。 
というよりも、確信できた。 

彼は頭がいい。 
ただどんなに頭がよかったとしても、 
もし彼が歌手だったら、大工だったら、芸術家だったら、 
万有引力の存在を発見することはできなかった。 

同じようなことはどこにでも当てはまる。 

たとえば作曲家。 
彼らは1から曲を作っているんじゃない。 
今まで聞いたことのある100億の、1000億のメロディーを、 
頭の中にある本棚から引っ張り出して、 
それを繋ぎ合わせている。 
中には1から作っているという人もいるだろうけど、 
実際は上で述べたようなことを無意識のうちにおこなっているだけだ。 

いい曲をつくる人っていうのは、 
たいていたくさんのコードを知っていて、 
たくさんの音の運び方を知っている。 
だから豊富な知識があればあるほどそこには柔軟性が生まれて、 
いい曲ができる。 
誰もが想像しなかった斬新なメロディーが現れる。 
突拍子もないようなアイディアっていうのは、 
堅実な知識のコレクションによって支えられている。 

最近は、 
イノベーションだとか、クリエイションだとか、 
そういった類の言葉が盛んに使われ、重要視されている。 
教科書をそのまま写したようなものは嫌われて、 
単語を丸暗記するような行為は時代遅れだといわれる。 
でも僕の考えとしては、 
こういう地道な方法で知識をかき集めなければ、 
なにも生み出すことはできない。 
何かを創造することなんてできない。 

頭でっかちな人が多いんだよ、このごろ。

2011/10/14

天才


自分は天才でもなんでもない、 

いわゆる凡人。 


昔は天才になりたいなとも思ったけど、 

今はそれほどでもない。 


エジソンやアインシュタインは偉大な発明をした。 

しかしその裏で彼らは、 

アスペルガー症候群との葛藤を自伝にて綴っている。 


イチローや羽生は過去にない新記録を打ち出した。 

しかしその裏で彼らは、 

常にトップを走り続けることのつらさやプレッシャーを自伝にて綴っている。 


アスペルガーを否定するわけではないし、 

トップを走り続けることが嫌いなわけでもない。 


でも、 

ほどほどのプレッシャーの中で、 

友達と毎日楽しくコミュニケーションをとって笑いあえる、 

そんなしょうもない今の人生が、 

すごく幸せだ。

2011/10/11

ニンニクがジョブズに勝るわけ


僕はニンニクが好きだ。 

すごく好きだ。 

それなのに世の中はスティーブ・ジョブズの死にばっかりスポットライトを当てて、 

ニンニクなんか見向きもされない。 

ニンニクが新聞の一面を飾ることなんてない。 


だけどニンニク好きの僕からすれば、 

スティーブ・ジョブズなんかよりニンニクの方がずっと偉大だ。 

いや、もちろんジョブズは偉大な男だと思う。 

iPhoneだってiPodだって愛用しているし、 

彼の考え方や人生観、発想、交渉術、プレゼン能力、 

どれをとっても素晴らしい。 

ただ僕が声を大にして言いたいのは、 

ニンニクの”方”が偉大である、ということだ。 


考えてみてほしい。 

美味しい料理にはどれもニンニクが入っている。 

逆にニンニクの入っていない料理の中に、 

どれだけ美味しいといえるものがあるだろう。 


結論から言う。 

ニンニクが入っていなくても美味しいものなんてたくさんある。 

ただ大多数はそれを探すプロセスの中に、 

どこか息詰まるような感覚を得たはずだ。 

つまるところ、 

本当は美味しいものをたくさん知ってるのに、 

多くがニンニクを使っている料理であるという現実。 

だから少し無理をして、 

意地でもニンニクを使っていない料理をリストアップする。 

簡単にいえば自分を偽っている。 


ニンニクというのはそれだけ皆に愛されている。 


それと、名前に関してはまるで気にする必要がない。 

ニンニクなんていうとたしかにオシャレではないが、 

それは日本人が「横文字大好き文化」を明治からずっとひっぱってきているからであって、 

ニンニクだってGarlicと表記すれば、悲しいことにオシャレに見えてしまうものだ。 


なんだか長くなってしまったけれども、 

一度公園のベンチにでも座って考えてみてほしい。 

「スティーブ・ジョブズがいない世界」と、 

「ニンニクのない世界」。 

色褪せて見えるのは、 

意外とニンニクの方だったりする。

2011/10/07

AV


インターネット上で、 

AVとかポルノ関係の商品にものすごくお金をつぎ込んでる人がいて、 

その人が、 

「食欲、性欲、睡眠欲は人間の基本だぞ。 そこに金をかけなくて他のどこに使うんだ!」

って力説してた。 


たしかになーって思った。

2011/10/05

カウントダウン


カウントダウン。 

個人的には嫌いだ。 

なぜか? 

カウントダウンには、 

独特の高揚感とプレッシャーが詰まっている。 

簡単にいえば、 

この高揚感とプレッシャーというやつが嫌い。 


具体的な話。 

たとえば大晦日にカウントダウンをする。 

高まる。 

これが高揚感。 

他にもたとえば、 

ロケットの打ち上げ前にカウントダウンをする。 

これが高揚感。 


百歩譲って、 

この高揚感は認めるとする。 

たしかにテンションは上がるし、 

アドレナリンも分泌される。 

心臓の鼓動が速くなるのを感じる。 


しかしもう1つの要素、 

つまりプレッシャー、 

これはいただけない。 

カウントダウンをするということは、 

必然的に「期待」を生み出している。 

この期待がプレッシャーにつながる。 


たとえば文化祭。 

くす玉を作る。 

カウントダウンをすることで期待が高まる。 

しかしうまく開かなかったりすると、 

一気にがっかりしてしまう。 

くす玉なんて「うまく開かない」の代名詞なのに、 

何を今さらがっかりするんだろう。 

たぶんそれは、 

カウントダウンの中に「期待」が込められていたから。 

みんなでカウントダウンをしているうちに、 

自然とくす玉に期待してしまう。 

そして結果が期待に伴わないとき、 

その反動としてがっかりとした気持ちが舞い降りてくる。 

これがプレッシャー。 


なんでこんなどうしよもないトピックについて熱く語ったかというと、 

先日同じような経験をしたから。 


最近よくあるでしょ、 

カウントダウン式の歩行者信号。 

秒数で表示するものもあれば、 

信号の両端にブロックがいくつか表示されていて、 

時間が経つにつれてブロックの数が減っていくやつもある。 

今回は後者。 


カウントダウンだから、 

当然、一定のテンポでカウントされていくわけなんだけど、 

ブロックが最後の1つになったとき、 

急に動きが止まったんだ。 

それでなかなか消えないわけ。 

自分としては次の1テンポで足を進めるつもりでいたから、 

思わずがっかりとしてしまった。 


「期待」していたんだろうね。 

カウントダウンだから。

2011/09/26

旅日記


少し期間が空きましたが久々に更新します。 
秋なのでブログ全体のカラーリングを渋めに調節しました。 

1ヶ月以上書き込みがなかったのは旅に出ていたからで、 
具体的にいうと、バックパックを背負い1人で東南アジアを回ってきました。 

ちょうどいい機会なので、 
今回は「なぜ旅に出ようと思ったのか」、「なぜ東南アジアなのか」、「旅の途中で何を感じたのか」、「旅を終えて何が見えたのか」などについて書き綴りたいと思います。 
少し長くなります。 


まず初めに「なぜ旅に出ようと思ったのか」。 
理由はシンプルで、 
学生のうちになにか楽しいことをしておきたいなと思ったんです。 
ありきたりな表現なのかもしれませんけど、 
自分の中で「今、楽しいことをする」っていうのは結構重要で。 
というのも、今年の春に18歳の従兄弟が亡くなって、 
人生について少し考える機会があったんです。 

日本人の多くは、 
いい仕事に就くためにいい大学に入って、 
そのためにいい高校に入って、 
勉強して、将来のために頑張って、 
少し苦しいけど汗水たらして努力して、そんな感じ。 

たしかにそれは素晴らしいことだと思うし、 
すごく現実的で冷静な選択だと思います。 
実際に自分も中学生のときは高校受験のために塾に通って、 
夏期講習を受けて、内申を気にして、そんな生活でした。 
もちろん大学受験だって同じです。 

でも、明日死ぬかもしれない。 

明日死ぬかもしれないのに、なぜ今苦労しなければならないのか。 
そう思ったんです。 
今努力して、苦労して、将来のために頑張っても、 
明日死んだら何も残らない。 
ただ将来のために苦しい思いをしただけの人生。 
すごくつまらない。 
だったら今のうちに楽しいことをしておくべきかなって考えたんです。 
死ぬときに自信を持って、 
「俺はこれをしたんだ」っていうものが欲しかったんです。 

そう考えたときに、 
以前から興味を持っていたバックパッキングが魅力的に見えて、 
本格的に旅に出る決意を固めました。 


じゃあ具体的にどの国に行くべきなのか。 
それが一番の悩みどころのように思えたんですが、 
冷静に考えてお金がないのでヨーロッパ1ヶ月は無理。 
一人旅は今回が初めてだったのでアフリカは敷居が高い。 
南アメリカは現時点でそこまで興味がない。 
アメリカ、カナダ、オーストラリアのような英語圏は過去に訪れたから避けたい。 
中東は危険なイメージが強い。 
そんな適当な理由から東南アジアに決定しました。 

具体的な国名を挙げると、 
タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアをぐるっと1周する旅だったんですけど、 
それもやっぱり物価が安いのと、 
Google  Mapを眺めていたら比較的楽に移動できそうだったという雑な理由で決めました。 
あと地球の歩き方にある程度の情報が載っていたし。 
そんなわけで国選びは総じて適当におこないました。 


実際に旅に出て何を思ったか。 
一番に感じたのは英語の必要性と不必要性。 

国にもよりますけど、 
この度回った4カ国は基本的に英語が通じない。 
通じるとしても片言の英語でしかない。 
なのでボディーランゲージや簡単な単語選び、写真を見せるなど、 
相手に意思を伝える努力、そして伝えたい思いが必要です。 
逆にいえば英語は必要ないし、 
変に英語をペラペラとしゃべるよりも、 
簡単な単語をぶつ切りで発するほうがよっぽど効果的です。 

「こんにちは」や「ありがとう」など、 
基本的なあいさつを現地の言葉で交わすだけでも相手との距離はぐっと縮まるし、 
thumbs  upは世界共通だし、 
笑顔で手を振れば必ず振り返してくれる。 
なんだか「英語は世界語」っていう自分の中にあった常識をうまく覆されました。 
それと同時に、英語ができればなんとかなるだろうという初期の自分の考えが浅はかだったことに気づきました。 
英語は必要ないんですね。 


ただし、それで終わらないところがこれまた面白いところで、 
たとえば旅人同士で会話するとき、 
特に欧米人とコミュニケーションを取るときは英語が必要になります。 
韓国人や中国人など同じアジア圏内であっても、 
英語での会話が当たり前です。 

2人で話をする分には先ほどのようなボディーランゲージや片言の英語で問題ないのですが、 
グループで会話する場合、話は別で、 
英語を話せないとおいてけぼりになってしまいます。 
そして特に日本人、フランス人はおいてけぼりになる率が高い傾向にあります。 

日本と違い欧米は旅文化が栄えているし、 
社会人であっても簡単に1カ月前後の休暇を取るので、 
どこ行っても必ず欧米の旅人と話す機会が待ち構えています。 
その度に英語の必要性を痛感しました。 


話は少し変わりますが、 
今回の旅で一番面白かった点。 
それはどこの国も意外と栄えているということ。 
東南アジアなんていうと、 
まだまだ発展途上国で、生活の質も低いように思えますが、 
実際はそんなこともなく、特に都心部は東京と見間違えるほど栄えています。 

もちろん多少強調している部分はあるので、 
本当に東京ほど栄えているわけではないのですが、 
少なくとも自分のイメージしていた「東南アジア」よりは、 
遥かに進んだ世界が広がっていました。 

たとえば、ラオスの山奥の村に1人で訪ねたことがあったのですが、 
そこはいわゆるテレビに出てくるような東南アジアの小さな村で、 
犬や鶏がそこら中を歩き回っていて、 
竹でできた小さな家があって、 
子どもたちが裸足で遊んでいるような場所だったのですが、 
話題作りのため彼らにiPhoneを見せたところ、 

「あー、携帯電話でしょ。」 

と当たり前のように返されてしまい、 
もうちょっとこうびっくりしてくれると思ったので正直残念でしたが、 
小さな農村でもそれぐらい進んでるんだということがわかりました。 

タイのバンコクの高級ショッピングモールは、 
日本の大手デパートとなんら変わりがないし、 
ベトナムのホーチーミンの交通量は、東京も顔負けするほどでした。 

カンボジアやラオスだって、 
主要な都市の多くは観光地化されている部分があって、 
すごくきれいな通りだったりお店だったり、 
とにかくいろいろと栄えています。 

もちろん写真で見るような自然だったり、 
山奥だったり、 
田舎の村だったり、 
そういう場所もたくさんあるんですけどね。 


旅を終えて実感したこと、 
実はそんなにないんです。 
何かを得る目的で旅に出たわけではないので、 
純粋に楽しかったのですが、 
「自分にはこれが見えた!」というようなキラリと輝くものはありません。 
無理に探すものでもないと思いますし。 

しいて挙げるとすれば、 
長期間の1人旅はおすすめしないということです。 

現地の人とのふれあいがあったり、 
旅人同士で友達になりやすかったりと、 
いいところはたくさんあるんですけど、 
それ以上に寂しさがあります。 

毎日が寂しさとの闘いです。 
一人で昼ご飯を食べながら地球の歩き方を読むときが一番心にきます。 

だから旅は2人で行くべきですよ。 
2人だとゲストハウスの部屋をシェアできるし、 
現地の人との触れ合いもあるし、 
旅の仲間だってできる。 
なにより寂しさがない。 

3人は奇数なので部屋を取るのが面倒で、 
4人以上は多すぎて現地の人と関わる機会がガクッと減ってしまいます。 
よって2人。 
2人がベスト。 

だからみなさん、 
もしも一緒に旅に出てくれる方がいれば、 
いつでも声をかけてください。 


Facebookに写真をアップしたので、興味があればどうぞ。 
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.248447698531419.57948.100000985729147